
鎌倉時代には、奥州藤原氏征伐の恩賞により、葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士たちが守護・
地頭として現在の宮城県域に多く入植してきます。
室町時代に入ると、南北朝の争いが起こったが、足利一族の斯波氏が奥州探題を称して多賀城に入ると、
争いは次第に沈静化していきました。
斯波氏の傍流である大崎氏が奥州管領職に着くと、大崎氏が東北地方(奥羽両国)の盟主となりました。
1392年に奥羽両国が鎌倉府直轄支配下に置かれ、大崎氏の奥州管領権は大きく制約を受けることになります。
1400年に大崎氏が奥州探題となると、再び大崎氏は東北地方の盟主の座に上り、以後、戦国時代に到るまで、
東北地方は室町幕府→奥州探題・大崎氏を中心とした支配体制になるのです。
戦国時代になると、南東北の奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、
大崎氏の権勢は衰退し、最終的に福島盆地(伊達郡・信夫郡)と米沢盆地(置賜郡)を
本拠地とする伊達氏の軍門に下ります。
安土桃山時代に伊達政宗が、奥州移封を受けて米沢から大崎地方の岩出山に拠点を移したが、
間もなく千代(せんだい。仙台)に拠点を移しました。
伊達政宗は、豊臣氏や徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に
居城として仙台城を構えます。
1600年に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。
冬季の乾燥や季節風対策として、防火林や防風林、防雪林の植樹を城下町に奨励していきまいた。
又、四ツ谷用水の開削もあって、仙台は多くの居住者を涵養できるようになり、62万石の仙台藩の藩経済を背景に、
仙台城下は奥州一の都会として発展していくのです。
江戸中期には実石高は100万石を超え、港町である石巻は江戸(東京都区部)との交易で繁栄します。
伊達氏は代々「陸奥守」を称し、東北の雄藩となります。
1868年の戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟の盟主となったが、薩長軍に敗れて石高を28万石にまで減封されます。
すると、秩禄が減って困窮した家臣団は、蝦夷地(北海道)に大量に移住しました。
この中の亘理伊達氏が北海道伊達市の名前の由来であるとされます。