
現在の宮城県の地には、古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでいたと考えられており、
東北地方最大の雷神山古墳(名取市)などの前方後円墳が多く造られていました。
古墳時代後期には、厚葬禁止の令に従い、横穴式古墳も多く造られたことがわかっています。
最初の陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)は、現在の仙台市太白区郡山(旧名取郡)に設置されたようです。
724年には、多賀城(旧宮城郡)が設置され、現在の宮城県中南部は奥六郡(日高見国)と対峙する軍事・
政治の拠点化が進みました。
又、陸奥国分寺・国分尼寺が、現在の仙台市若林区木下周辺(旧宮城郡)に設置されます。
後に多賀城は、現在の仙台市宮城野区岩切(旧宮城郡)に移転したと考えられています。
奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、
38年戦争が勃発します。
伊治(コレハル、栗原?)を拠点とするアザマロは当初大和朝廷側に帰属し多賀城に出仕していたが、
蝦夷への差別に怒って反乱を起こし多賀城を滅ぼしてしまします。
これをきっかけとして胆沢のアテルイ・モレによる抵抗戦争がおこるのです。
11世紀半ば北上平野の俘囚の奥州安倍氏が仙台平野に影響力を拡大し、多賀城の国司と対立を強めます。
安倍氏討伐の命をうけた源頼義が下向しても仙台平野の郡司らは中立を守り、
苦戦した朝廷軍は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼすことが出来ました。
その後12世紀、奥州藤原氏の時代になると、奥州の軍事警察権が平泉にうつり、
仙台平野は中央勢力の荘園と在地勢力の自治が混在するようになります。